篆刻専門店 かまくら篆助(てんすけ) 北鎌倉の篆刻専門店。篆刻家雨人の手彫り遊印,雅印通販サイト

篆刻家、雨人の出来るまで/01

 

篆刻家、雨人のできるまで(大まかな流れ編)

 

第1章  落ちこぼれ、書道の専門学校へゆく

第2章  滋賀県の全寮制。時代錯誤の書道生活。今時こんな学校あったのね・・

第3章  怖いもの知らず、中国へ乗り込む。

第4章  雨人の生きる道
 
 
第1章  ~落ちこぼれ、書道の専門学校にゆく~
 
 
篆刻家を目指し始めたのはいつのことだろうか。
多分、20 才のころ、書道の専門学校を卒業する前だと思う。
 
初めて篆刻を彫ったのは、書道専門学校で自分用の印を彫った時。
それまで、「篆刻」なる言葉すら知らなかったのだ。
 
もともと手先の器用さには自信がありました。小学校3 年生でリンゴの皮を切らずに全部むけたし、鉛筆削りで削ったと間違うくらいにナイフで鉛筆が削れた。よく鉛筆の後ろに顔を彫って遊んだものだ。
で、篆刻にはまったわけ。
 
高校卒業後の進路で迷わず書道の専門学校を選びました。
第一の理由は、その専門学校には入試がないということ。
当時、雨人の成績は散々なものでした。
テストが返されるたび、友人たちは雨人の点数を聞きに来ます。
雨人より下だとまずいわけ。で、点数が上だと安心して自分の席に戻って行くのだ。
高校では、学年でのテストの順位が発表される。常時、下位10 位には入っていましたが、
あるテスト終了時渡された順位表には、
 
173 / 173
 
と書かれていた。
173 人中173 番だということだ。
さすがに焦りましたよ。学年びりっけつということですからね。
雨人より下がいないのだ。
 
その時は、運悪く(?)常時、雨人より下位の点数を取っていた数人が停学になってテストに参加していなかったのだ。ウカツにも、いつも通りまったく勉強をせずにテストに臨んだ僕は、その順位表を持って頭を抱えてしまった。
 
親に見せられないよう。
 
ってなわけで、大学進学なんて腹は、はなっからなかった。
ただ、雨人もプライドがなかったわけではないですよ。
 
キリスト教系の学校だったため、テストに「聖書」という科目があったのだ。
ただ、受験に関係ない「聖書」の授業は誰一人として聞いていないのだ。皆寝ているか、他の勉強をしていました。僕は、必死で聖書の勉強をした。必死と言っても聞けば授業は非常に面白い。
聖書の話から、ギリシャ哲学まで今まで習ったことのない話ばかりだった。
おかげで、今でも主の祈りも讃美歌もソラで唱えられる。
(ちなみに、雨人はキリスト教徒ではない)
で、毎度テストは満点だった。
 
ただ、みんなに自慢げに見せても、反応は
「ふーん」
だった。
 
あまりの反応の薄さに、ガクッときたが、自信にもつながった。
みんなが勝負しないところで勝負すれば勝ち目は大いにあるのだ。
進路の決まらない僕は、テストがひどくても入れるという短大があるというので,、親に、
 
「短大でも行くかな・・・」
 
と漏らした。
母親は、
 
「あらいいじゃない、たんかい行けば」
「あ、そう」
 
と言うわけで、ここで食い違いがあるわけだが分かるでしょうか?
僕は、「たんだい(短大)」といい、母親は「たんかい(淡海)」と言ったのだ。
 
「たんかい」とは、「淡海書道文化専門学校」のこと。
当時母親が所属していた書道団体の専門学校だ。
全くそんなことは知らない僕は、送られてきたパンフレットを眺めてたまげたものだった。
で、書道の専門学校を選んだ第二の理由は・・・
 
男子8 人、女子70 人!!!
 
どんなもんかと、学校に問い合わせの電話をした時、電話に出てくれた先生が言った言葉。
 
「うちの学校、男子が少ないから大歓迎ですよ。今のところ5 人しか男子がいません、女子は70 人くらいかな」
「ああ、そうですか・・・」
 
電話を切ったその瞬間、入学しよう!と心が決まってしまいました。
入試なし、早い者勝ちとのこと、その日に願書を書いて学校へ送った。
で、見事に合格しました。当たり前なんですけど。
 
 
 
第2章  ~ 滋賀県の全寮制。時代錯誤の書道生活。今時こんな学校あったのね・・・~
 
入学式の日、初めて専門学校の校門に立ちました。
信じられないでしょうが、学校も見ずに入学を決め、当日まで見学にもいかなかったのだ。
適当すぎて、今思うと、よくもまあ・・・です。
 
滋賀県の全寮制。男女交際禁止、バイト禁止、車、バイク禁止、と厳かに告げる、着物のおばあさん先生。眼鏡の奥の目が怖い・・・という時代錯誤の学校へ横浜から移り住むこととなったのだ。
 
だいたい、書道の専門学校に来ようと思う人間は、書道オタクである。
地元の展覧会で賞を取りまくり、書に関しては自信満々の面々がやってくるのだ。
だいたいが段もちで3 段、4 段、5 段と立派な肩書きを持っていました。
一方、雨人と言えば、短大と淡海を間違えて、まあ、成り行きでやってきたようなものだから、他とはスタンスがかなり違った。
 
ただ、母親が書塾の先生だったため、小さい頃から筆は持っていました。
が、それは小学校の話で、中学、高校では筆はほとんど持っていません。
書道の専門学校に入学が決まり、高3 の終りに書を始めようと筆を持ったが、学校に入れば、嫌というほど書道をやるのだから、ま、いっか、と筆を投げ出したので、
3 級という自慢にもならない中途半端な腕前で入学したのだ。
入学してからは想像以上に、自分の下手さ加減を思い知らされました。
小学校の時は、字がうまいねえ、と言われていたその奢りを引きずっていたので、ちったあ書けるだろう、とやってみるのだがまったくもって字にならない。しかも、周りはベテランばかり。
 
滋賀県。周りは田圃だけ。娯楽施設一切なし。
 
その環境が、雨人に強力な集中力を生んだ。
今まで、これだけ真剣にものに取り組んだことがあっただろうか?しかも、全寮制。ライバルは常時隣にいるのだ。
 
学校から帰り墨をすり、宿題の字を書く。
隣の部屋の同級生に出来上がった作品を見せに行くと、けちょんけちょんに言われる。で、くうううう! と夜中の12 時まで書き、傑作だ!とまた見せに行くと、ちょっと疲れたんじゃない?休んだ方がいいよ。さっきの方が全然いい。
 
ちきしょう!!!!
 
と、明け方3 時まで書きこんで隣のドアを開けようとすると、中はまっくら。
勝ったな。と勝手に勝利宣言をして眠りにつくのだった。
しばらくして、条幅など大きい作品も書くようになり、
作品に捺す印を作る、「篆刻」という授業がはじまった。「篆刻」という言葉は初耳だった。
 
元来、工作は大好きな雨人ですから、大喜びで作ったのだ。
すっかり楽しくなった雨人は、不器用な友人のために、たばこ一箱で印を引き受け結構作り、
今見返せば、なんじゃこれは?ですが、当時は得意満面、いっぱしの篆刻家を気取っていたのです。
 
篆刻にはまってしまった雨人は、篆刻家になることに決定しました。
しかし、どうしたら篆刻家になれるのか分からず、篆刻の本場と言えば、中国だから、中国に行くのがよかろう、と中国語の専門学校に入学し、日夜、中国語の勉強に明け暮れたのだった。
昼まで学校で勉強し、夜、休日は中華街で中国人と一緒に中華まんを売りながら中国語を覚えました。
そして、中国語の専門学校で書道を受け持っていた先生から、中国の篆刻家を紹介していただき、いよいよ、単身中国へ乗り込むこととなるのだ。
 
 
 
第3章 ~怖いもの知らず中国へ乗り込む~
 
書道は専門学校でばっちり習っておりますし、印も結構彫って好評を得ていましたから、自信満々、作品を持って北京の首都師範大学の教授、高惠敏老師の門をたたいのだ。
作品を見せたら、老師はぶったまげて、
 
「君は天才だ!教えることなど何もないよ。僕の片腕となって働いてくれ!」
 
と言われるだろうと、ものすごく勝手な妄想を抱きながら、
もったいぶって、持参した作品群を机に広げたのだ。
ところが、腕を組んでしげしげと作品を眺めていた老師は、
 
「印は、めちゃめちゃだね。篆刻を何も分かっていない。書は、基本がなっていなよ。
篆書は書けるのかい?書けない?どうやって篆刻をやるんだ。
君は印を彫らなくていいから、まずは字を書きなさい
 
と手渡された、篆書の基本集に目を落としながら、
体中がガラガラと崩れていく音を聞きました。
そんな中、妙に冷静な自分もいて、ガラガラと体が崩れる音ってホントにあるんだ、
と、感心してみたりもしました。
 
寮までの帰り道、こんなに足取りが重かったことはありません。
書道の専門学校で2 年間、寝る間も惜しんで取り組んだ書道です。
その2 年を丸々否定されたようで、何ともやるせない気持ちになりました。
 
その日からは、ひたすら篆書を書きました。
朝起きて、字を書いて、お昼を食べて字を書きました。
篆書に関しては、全くの素人だったので、どんどん吸収できました。
部首を書き、千字文を書き、漢詩を書きました。
しばらく経った頃、
 
「印、彫って持ってきて」
 
とのお言葉。
心の中で飛び上がりましたよ。
心って飛び上がるんだ、と実感しました。
 
イスラエルの留学生と同棲も始め、北京の青春真っただ中となったのでした。
彼女が、今の妻でもあります。
このころを思い返すと、胸がギュウッと懐かしさで締め付けられます。で、自信満々、日本へ帰るのです。
 
なんせ、世界でいちばん篆刻に打ち込んだ自信がありましたから、
世界一の篆刻家だったのです。1998 年、23 歳の秋でした。
 
 
 
第4章  ~雨人の生きる道~
 
自信満々、天狗の鼻をブルンブルンいわせて帰国しましたから、
お察しのとおり、見事に鼻をへし折られましたよ。
そんなに甘いもんじゃありませんね。何事も。
雨人の人生は、天狗になって鼻をへし折られて、の連続ですから、最近は勝手に伸びる鼻にドキドキしております。
気づかないうちに伸びちゃうんです。
鼻をへし折られるのは、想像以上に痛いんです。しばらく、恥ずかしさと情けなさと
みじめさに、めった打ちにされますから。
ただ、へし折られるたびに成長できたのは確かですから、天狗もまんざら無駄なわけではありませんね。
 
1 度だけ篆刻から逃げようとしたことがあります。実際に逃げました。
 
妻が妊娠し、篆刻の注文が全くなく、ハンバーガー屋で早朝5 時から昼の2 時までバイトをし、
午後印を彫るという生活をしている時
でした。
妻は、今まで1 回も篆刻家をやめろと言ったことはありません。
ただ、篆刻に覆いかぶさられ身動きできなくなった雨人は、篆刻を生活の糧にする方法が
分からず、篆刻に取殺されるのではないかと、もがく毎日でした。
 
篆刻のない世界に逃げよう。これでは家族を養えない。生殺しだ。
 
みんなにはかっこいい理由を話して、妻の祖国イスラエルへ旅立ちました。
イスラエルでの生活はまた別の機会に書くとして、2 年間、篆刻、書道のない世界で暮らしてみて、分かったことは、
 
雨人には篆刻しか取り柄がないんだね…
 
ということでした。
おりしも、インターネットが普及し始めた時期。雨人の印の販路が見つかった瞬間でした。
 
覚悟が決まれば、つらいことはありません。
いろんな方にお世話になり、迷惑をかけ、何とか注文をいただくことができるようになりました。
雨人が世の中に役立てるとしたら、篆刻以外にはないでしょう。
 
と、鼻をへし折られる日が近いかもしれませんね、
 
その日まで、鼻をブルンブルンいわせながら、工房「聚印閣」にて印をこりこり彫っています。
 
 
 
長文、駄文、ご静読ありがとうございました!
パチパチパチパチ・・・・・・!(拍手の音)