篆刻とは何か?ラーメンで解説する雨人的篆刻の概念
どもども、篆刻家雨人です
今年はいつもと違い、正月ボケを一切感じない正月を迎えております
いいですねえ、気合い充分でございます(笑)
篆刻とはなんぞや???
正月、親戚一同集まり、久々に弟と温泉でゆっくり近況を語り合いました
そのなかで、以前ブログで書いた
のエントリーで
よく、篆刻家が
この作品は篆刻ではないね
的な批評をすることがある
篆刻をかじっていない人にとっては
なんのこっちゃ?
この作品とこの作品の違いはなんぞや?
と混乱するし、迷うことだと思う
ということを書いた
弟はこれに納得できなかったようで色々と質問してきた
弟はラーメン屋を都内で営んでいる
質問の趣旨はこうだ
「たとえば、僕が篆刻を彫ったとする
それは、篆刻家からみれば篆刻ではないという
しかし、僕が、これは篆刻だと言い張れば篆刻になる
篆刻という概念は、篆刻家が作るというのであれば、
篆刻が先にあったのか、篆刻家が先にあったのか
卵が先か、鶏が先かのの議論にならないか?」
非常によくわかる
篆刻というものを説明すれば、
篆書体で、石に彫られたはんこ
ということになる
にもかかわらず、だ
その通念通り篆書体で石に彫ったはんこを
篆刻家が篆刻ではないと否定する
ここで、誤解のないように言っておくが、
どんな人間が彫ったものも、僕自身は篆刻と認識する
大方の人がそうだと思う
ただ、これは篆刻という形は取っているが
篆刻というには程遠い・・・
篆刻に馴染みがない人が彫ると、そういう評価を受けてしまうということだ
「篆刻ではない」、ということではないということだ
分かりにくくてすんません(汗)
ゆっくり解説していくので、もし興味があれば読んでいただければ
僕が言いたいことが多少は理解いただけるのではないかと思います
それぞれの世界観の体得はそのものに触れる時間の長さに比例する
ラーメン屋の概念
まず、どの分野にも概念というものがある
弟はラーメン屋
では、ラーメンとは何か
中華麺とスープに・・・
と辞書にはあるが、中華麺とはなんぞや?
本場中国の中華麺は「鹹水を使って作られる」・「卵黄を麺の生地に入れる」・「コシ(噛みごたえ/弾力性が強い)」・「麺体は波浪形」・「黄色の色合い」・「茹でると縮れ」・「独特の鹹水の香り」など、七つの特徴が必須である。
と、中華麺についてウィキペディアでは書かれている
うーん
こんにゃくラーメンをラーメンと認識していいのか?
冷やし中華はラーメンか?
いろんな疑問が出てくるし、訳が分からなくなる
ラーメンとはなんぞや?
しかし、日本人はラーメンという概念が身体中に充満しているので
一口食べれば、これはラーメンであるか違うかはすぐに分かる
原材料がどうのこうのなんてのは論外なのだ
ラーメンと大体の人が認識する
それが大事
つけ麺はラーメンか?
の論争があったそうだ
で、結論はラーメンであるとのこと
僕も、ラーメンだと認識している
しかし、冷やし中華をラーメンと認識するか?
というと僕はNOなのだ
ラーメンと認識する人がいてもいいけど、
僕にとっては
「冷やし中華」というラーメンとは別のジャンルという認識で認知している
理屈ではなく分かること
何が言いたいか
僕は日本で生まれ、ラーメンという概念が
体の奥底に染み付いている
だから、ラーメンを見ればすぐラーメンと認識できるし
パスタの麺を麺つゆに入れたものを、ラーメンとは認識しないのである
中華麺を、麺つゆにつけて食べるのもラーメンとは認識しない
これは人それぞれ違っていいですよ
ただ、日本人それぞれにラーメンという概念がしっかり身についているのだ
だから、それぞれの感性がぶつかり合い、論議になっても問題ない
一方、篆刻はどうか
なんとなくの概念は持っっている人も多いと思う
ただ残念ながら、篆刻という概念が体全体に染み渡っている
という人間は、かなりの少数ということになり
それは、大概が篆刻家、という答えになるのだ
新しい概念を篆刻に吹き込めがいいじゃないかっ!
もちろんそれは大事だ
ただ、やたら滅法に篆刻を新しくすればいいというものではない
たとえば、だ
歌舞伎を観にいくとする
僕が歌舞伎を観に行って、全く理解できず
歌舞伎がさっぱり分からん!
新しい風を入れるべきだ!
昔の言葉使うの禁止!
みたいなことを言って
僕が新たに新歌舞伎を立ち上げたとする
中には面白がる人もいるだろうが
日本人の大半から、総スカンをを食らうだろう
日本の文化を訳分かんないことするな! と
ところが、猿之助のようにスーパー歌舞伎は人々に熱狂的に受け入れられる
なぜか?
それは、歴史を踏まえているかどうかということ
歌舞伎の流れ
ラーメンの流れ
篆刻の流れ
その流れに乗っているかどうかを人は敏感に感じ取る
その流れを体得してこそ
新しい革新的技術へと進むことができるのだと僕は思う
篆刻を理解するために
落語と漫談の違い
着物を着て座布団に座り、お囃子で登場し
漫談を始める
それは落語とは認識されない
落語には落語の、漫談には漫談の
文字では書き起こせない、感覚がある
映画やアニメ、ドラマで落語を扱った作品が多々ある
どんなに役者が落語家の研究をし
落語家と見まごう話術を手に入れたとしても
どこかに、何か違う・・・
という、違和感がつきまとう
それは、役者が漫才師を演じてもそう
ラーメン屋を演じてもそう、歌舞伎役者を演じてもそうなのだ
篆刻家を演じてもそうなのだろうが、
いかんせん、世の中には篆刻家、というものを知っている人がいないので
残念ながら、違和感を感じる人はいないかもしれない(笑)
だから、歴史を踏まえた上で、長年の修行を積んで、
はじめて、そのものになるのだ
それは、誰がみてもラーメンであり歌舞伎であり篆刻なのだ
その空気感、佇まい、存在感
概念は理屈を超える
言葉でいくら言い表そうとしても、言葉を費やせば費やすほど
遠ざかっていく、ただただ、感覚の世界
だから、篆刻ではないと否定された時
それは素直にまだ篆刻が体に充満していないのだと悟ればいい
充満して、やっと篆刻家のスタート地点に立つ
そのあとに技術が追いついてくる
僕は落語が大好きだ
毎日のように聞いていた時もあった
だけど、落語家の真似をしても落語家のようには喋れない
落語が体に多少は満ちている
だけど、技術がなければ落語にはならない
体がそのもので充満されそれが溢れ出し始め
そこからの徹底的な修練
それと自分が一体化し・・・
その世界のプロフェッショナルになるというのは
ただならぬ修練の結晶なのだ
だから人は、その結晶を垣間見える世界に行こうと
趣味を作り、新たな世界を体感できるようにセミプロへといなっていく
セミプロ、マニアと呼ばれる人間が多い世界ほど発展する
技術はないが、見る目は肥えた鑑賞者がたくさんいる世界
その目にかなうような、知識、技術を持っていなければすぐに脱落してしまう
篆刻界はどうか
残念ながら目利きと呼ばれる人が非常に少ない
だから、篆刻家も恐れることなくのほほんとしている
それはそれでいい
だけど、そんな世界はすぐに没落する
昔の経済人などはこよなく篆刻を愛した
なぜ、篆刻に興味を持つ人が少ないか
それはひとえに、篆刻家が篆刻を楽しいと思っていないからに他ならない
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